<翁主を産んでも側室になれなかった(?)安嬪李氏 「チャン・オクチョン」 あらすじ 17話 補足>

「チャン・オクチョン」の17話で、オクチョンを側室にしたがる粛宗に臣下が「お祖父さまは女官が王女を産んでも側室にしなかった」と反論する場面があります。原語をよく聞くと、お祖父さまのことは間違いなくヒョジョン(孝宗)と言っており(粛宗父のヒョンジョン・顕宗ではない)、王女とは公主ではなく翁主だったようです。

調べてみたところ、孝宗には数人の公主のほかに、一人だけ翁主がいました。その淑寧翁主の生母は安嬪李氏というお方です。「嬪」ということは側室の最上位なので、ドラマ中の臣下の言葉とは食い違いますが、追尊されている可能性もありそうです。今回は安嬪イ氏のことを探ってみました。

孝宗亡き後ぐんぐん出世

安嬪イ氏は1622年(光海君14年)生まれ、1693年(粛宗19年)没。王族と同じ李氏ですが、本貫は慶州なので、王族の全州とは違います。彼女は孝宗が鳳林大君だった頃からの側室で(最初は宮女として仕えていたはずなのでいつから寵愛を受けるようになったのかはわかりません)、大君時代に清の瀋陽に人質として滞在していたときにも同行しました。

娘の淑寧翁主を産んだのは1649年(仁祖27年)で、その直後に仁祖が崩御し、鳳林大君が即位しました。もともと宮女出身だし、父王崩御のごたごたも影響して、正式な側室への昇進が遅れたのかもしれませんね。

イ氏が側室の入り口である従四品の淑媛(スグォン)になったのは、翁主を産んで7年後でした。この進行の遅さは異例だったのか、後年の英祖時代の実録で振り返られています。「昔者孝廟朝, 安嬪李氏, 生翁主七年, 始封淑媛」とあるので、「昔の孝宗時代の安嬪李氏は翁主を産んで7年経って初めて淑媛に封ぜられた」と述べているようです。

孝宗の在位は短く、10年ほど。次に玉座に上ったのは、息子の顕宗(粛宗の父)です。淑媛となっていたイ氏が次に昇進したのは1661年(顕宗2年)のことでした。「特陞先王後宮李氏爵, 爲淑儀, 即淑寧翁主之母也」と書かれているように、「先王の側室で淑寧翁主の生母である李氏が淑儀になった」という旨が実録に記されています。残念ながら娘の淑寧翁主は1668年(顕宗9年)に痘瘡で逝去。淑儀イ氏はその後、昭儀、貴人を経て、1686年(粛宗12年)には安嬪に冊封され、72歳まで生きました。

安嬪イ氏の出世劇の秘密は?

とっても余計なお世話ですが、宮女出身の安嬪イ氏が仕えた孝宗は早々に亡くなり、王子は産まず、一人娘は息子を産まずに若くして他界し、娘が嫁いだのはそう華やかな家門ではなさそうなので娘の遺族が政界で存在感を示したわけでもなさそうです。それなのに着々と昇進して嬪まで上り詰めた安嬪イ氏って、けっこうすごい!と思いませんか? 清国時代に孝宗を支えたというのもあるのでしょうが、長生きしていると、王族にも風の便りで消息が伝わり、「イさんもそろそろ還暦なの?何かしなきゃね~」などと思うのかなと想像したりしています。

・・・と、上記のように、田舎の親戚付き合いみたいな牧歌的な空想をしていたのですが、よく考えてみると、張禧嬪こと禧嬪チャン氏が淑媛になったのも1686年(粛宗12年)。つまりこの前後の粛宗の寵愛はものすごかったはずなので、祖父の女官出身の側室の位を嬪にまで昇格させたのは粛宗の西人派への当てつけもあるのかしら?と思ったりもしました。

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